【人的資本特集①】
「人的資本」の開示義務にも盛り込まれ、更に重要性が高まるコンプライアンス

2024.06.06

小松 久夫

(株)日本能率協会総合研究所 経営・人材戦略研究部 主任研究員
同社におけるエンゲージメント調査事業およびコンプライアンスをテーマとした事業の立ち上げメンバーとして参画し、20年以上にわたり主要メンバーとして従事。現在は、主にエンゲージメントとコンプライアンスをテーマに、従業員向けの診断を通じて組織課題の把握と施策提案を実施。また、コンプライアンスをテーマとした研修講師も務める。

はじめに

「人的資本」という言葉をはじめて聞いたとき、「人的資源」と何が違うのか、また「人的資本」の開示義務化において、なぜコンプライアンスという視点が含まれているのか、そういった疑問があり、公開情報などを交えて、「人的資本」におけるコンプライアンスの重要性を考える。

「人的資本」の開示項目にコンプライアンスが含まれる理由

内閣官房のHPで公開されている「人的資本可視化指針」には、以下の開示事項が例示されている。
①人材育成に関連する開示事項
②従業員エンゲージメントに関連する開示事項
③流動性に関連する開示事項
④ダイバーシティに関連する開示事項
⑤健康・安全に関連する開示事項
⑥コンプライアンス・労働慣行に関連する開示事項
「人的資本」は従業員の経験、スキル、知識などを資本と捉える考え方であり、一般的には人事系の分野に属する。しかし、①~⑤の開示項目は人事分野において違和感なく受け入れられる一方で、「⑥コンプライアンス・労働慣行に関連する開示事項」には、人権や従業員の処遇に関わるものだけでなく、取引先との取引なども含まれており、必ずしも「人」に限った話にはなっていない。

そもそもコンプライアンスは、大きな不祥事において、個人の不正よりも風通しの悪さやマネジメントの問題、経営層の不正などが影響することが多い。このため、コンプライアンスが「人的資本」とはやや馴染まないように感じるのは自然であろう。しかし、「人的資本」の開示がなぜ求められているかを考え直すと、コンプライアンスの重要性が見えてくる。

「人的資本」の開示情報は、昨今グローバルで注目されているESG投資の対象になりうるかを測る判断基準にもなり、サステナブル経営を実現するための自社目標とすべき指標である。そのため、言葉として「人的資本」とは馴染まないと感じても、開示する目的を考慮するとコンプライアンスという視点は不可欠であり、結果として開示義務に含まれている。

人事分野におけるコンプライアンスの位置づけ

人事分野としての「人的資本」とコンプライアンスには直接的な関係が薄いように感じると上述したが、従業員エンゲージメントという視点では、昨今、コンプライアンスと非常に重要な関わりを持つようになっている。

コンプライアンス(compliance)を直訳すると“法令遵守”となり、一般的にはコンプライアンス=法律を守るというニュアンスが強い。もちろん、多くの企業ではコンプライアンスは“法令遵守”にとどまらず、社内ルールや社会通念も含めた大きな枠組みとして捉えられている。「人のものを盗んではいけない(法令)」「始業時間までに出社する(社内ルール)」「電車の中で大きな声で話さない(社会通念)」など、“悪い行為をしない(≒予防倫理)”ことがコンプライアンスの実現につながるとして、各社対応にあたっている。

一方、コンプライアンスという言葉が普及する以前は、経営倫理(企業倫理、ビジネスエシックス等)という考え方が一般的であった。経営倫理は現在の予防倫理に基づくコンプライアンスという概念だけでなく、社会貢献なども含む社会の公器としてあるべきための考えであるが、不祥事が多発した近年は、不祥事を起こさないことを第一義とする傾向が強くなり、経営倫理よりもコンプライアンスに比重が移ったと推察している。しかし、サステナブル経営という視点から経営倫理が見直されており、“悪い行為をしない予防倫理”に加え、“良い行いをする志向倫理”が必要とされている。

この「志向倫理」、すなわち“良い行い”をするためには、指示やルールにとらわれず、柔軟で自発的な思考と行動力が求められる。この行動の源泉となるものは、企業に対する忠誠心よりも愛着心が効果的であり、従業員エンゲージメントが重要な役割を果たす。

「人的資本」の開示を契機とした更なるコンプライアンス強化に向けて

サステナブルな経営の実現に向けて「人的資本」の開示事項にコンプライアンスが含まれることは非常に好ましい。ただし、「人的資本可視化指針」の例示は、トラブルに関わる件数といった“実際に生じた問題の件数”が多いため、コンプライアンスレベルが低い企業であっても、たまたま問題が生じなければ、良い情報が開示される。結果指標が重要であることは否定できないが、“問題を生じさせないような土台がどの程度実現できているか”を判断できる指標(コンプライアンス上問題のある商習慣の有無やリスク度合い、トップマネジメントのコンプライアンスへの関与度、職場の風通しの良さなど)も合わせて開示できれば、企業の質を把握する上でより重要な指標となろう。

もちろん、最も重要なことは情報を開示することではない。“義務化されたから出す”、“都合の良い情報を出す”のではなく、現状を真摯に受け止め、改善を実現することで、さらに良い状態の情報を開示できるような活動を愚直に推進することが、真のサステナブル経営の実現に繋がると考えている。

[出典]
『人的資本可視化指針』 内閣官房
https://www.cas.go.jp/jp/houdou/pdf/20220830shiryou1.pdf

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